なぜ、現在の職業にたどり着いたのか? 幼少期から現在に至るまで
人生最初の記憶はカーペンターズの「Sing」を歌っている5歳くらいの自分。聞こえたメロディと英語の音の響きが心地よくて、意味も何もわからないけれど真似ていました。体が小さく、いつもぼーっとしていた子供が急に歌い出したので、「ゆっこが英語、歌ってる!」年の離れた姉兄がびっくりして笑っていました。自分の心がパチっと開いた、そんな瞬間でした。
実家は小さな会社を経営していて、両親共に人前で話す姿をよく見た記憶があります。父はおしゃれ好き。スーツをピシッと着て出かけていく姿は子供心にも格好良かった。仕事関係の会合でスピーチをしたり、書くことや読書も好きでいつも机に向かっていました。ある日、私が作文を書いていたら「文章を書くときは最初と最後に関係を持たせるといい文章になる」と教えてくれました。当時はふ~んと聞き流しましたが、今思うと、スピーチにも共通する大切な要素として大いに合点が行きます。
母は書道の先生。声を張り上げ明るく指導していて、毎月200人以上のお弟子さんが通ってきました。PTAなどでは理路整然というか、堅すぎるくらいキッチリ話していました。母には話すことに持論があり、割烹着姿で語っていました。「大きな声でスピーチした人の後に自分が話すとする。ならば、こちらは敢えて小さく話し出す。すると人はぐっと引きつけられる。その逆も然り。話すことには勘所がある」こうしてみると、両親は今の私の仕事に繋がるいろいろなことを自然と見せてくれていました。
中学生になると、アメリカのミュージカル映画にハマりました。真夜中のテレビ映画を観たり、映画館に通いました。ピアノを弾きながら劇中歌を真似て歌い、おかげで英語は得意科目でした。映画からは実に多くのことを学びました。紳士たる立ち居振る舞い、エレガントなドレスのデザインやアクセサリーの付け方・・・すべてが心に焼きつきました。
そして「将来はミュージカルスターになりたい!」小さい時からのピアノのお稽古に加え、バレエと声楽も習い始めました。体の姿勢や動きなどはバレエがベースになっています。
高校生になると音大声楽科を目指して本格的に勉強を始めました。腹式呼吸、声の響き、全身を使って歌うこと、言葉の発し方、日本語と外国語の音のちがい、いろいろな勉強をしました。映画「英国王のスピーチ」で口の中にビー玉をいっぱい詰めて声を出すシーンがありますが、似たような訓練もありました。
声楽の先生はオペラ歌手で生活すべてが声中心。「歌う本番3日前からは電話で話さないし、下手な人の歌も聞かない」と毅然と仰っていて、徹底したプロ意識を先生から学び、真似ました。自分で習うだけではなく、舞台や映画をたくさん観ました。ミュージカル、ピアノ、バレエ、声楽・・・これらから学んだこと、そしてたくさん感動したことは私の人生の基礎になっています。
高校をサボって映画を見に行くほどどっぷり好きなことにハマりながら、部活はチアガール、文化祭や体育祭でもイベントに出たりしていました。お転婆を通り越しており、制服はわざとミニスカートにする(当時は長いのが流行り)、授業をサボる、赤点をとる、卒業式をぶち壊す(ここには詳しく書けません・・・)。自由奔放で最高に楽しい日々でした。今では到底通用しないレベルだと思いますが、当時は寛容だったのですね、学校の先生方に本当に感謝しています。
音大を目指していた高2の頃、家業が倒産して生活が一変しました。音大は費用がかかるので断念、英文学科(清泉女子大学)に進みました。入学して間もない頃のネイティブの先生の授業中のことです。「質問ある学生は?」と問われたので、私は思い切って手を挙げました。緊張しながら勇気を振り絞り、”I don't understand the meaning of …” やっとの思いで話せました。先生から答えを頂き、小さな達成感を得ました。授業の後、留学経験があるAさんが近づいてきて「さっき変な英語で質問したの、誰かと思った」と言い捨てました。体が凍りつき、その後しばらく学校にいけなくなりました。今思うと随分と弱い自分です。伸び伸びした高校時代とは別世界、ブランド物を持つようなお嬢様が通う学校を選んだことに後悔しましたが、逃げずに続けました。
ある時、英文学科主催の英語劇「オズの魔法遣い」を上演することになり、オーディションがありました。主役のドロシー役に受かることができました。学生たちで手作りしたたった一度の舞台でしたが、大好きなスター、Judy Garlandが同名映画で演じた役です。本番では「感動して泣いちゃった!」と友達が言ってくれて、とても嬉しかったです。ミュージカルスターになる夢は、小さいながらも、このとき叶いました。
大学時代も引き続きミュージカル映画にどっぷりでしたが、新たに、歌舞伎や相撲、落語を観たりすることも多くなりました。ニューヨークに短期留学して本場のミュージカルやオペラも観に行きました。初めて外国人上司の元で働いたのもこの頃。とはいっても学生のアルバイト、数ヶ月間の秘書代行サポートでした。イタリア車メーカーのジャパンオフィスで、上司はキプロス人のMr. Gregoriades。長いお名前でよく覚えています。主な仕事はインボイス整理、コピー取り、そして上司のランチを買いに行くことでした。”Miss Mori”と私を呼んでくださる上司の声や発音、今でも耳に残っています。
一度だけ、Mr.Gregoriades が運転するアルファ・ロメオの助手席乗せてもらい、日比谷通りを走りました。窓に流れる景色、静かなシートの乗り心地、新しい世界のようでした。英語を使う仕事には大いに憧れましたが、アドミの仕事は全く向いておらず、居眠りするほど手際が悪かった。「私はきっと会社員にはなれない」と思いました。
そんな私にどうしても就職したい会社が見つかりました。JRA(日本競馬会)です。走る馬の美しさに魅かれ「わたしはこういう思いで競馬に関わりたいです」と人事部に何通も手紙を出しました。すると人事部の方が熱意をかって会ってくれました。「森さん、ぜひうちに入ってください。それにはまずは筆記試験に受かってね」そう言っていただいたのですが、試験ではライバルが東大生ばかりで、見事に落ちました。
就職に失敗しましたが、なんとか拾ってくれる会社がありました。大日本印刷会社の企画部門の子会社で、ディレクターという職種に魅かれて応募。実際の業務は、営業とクライアントとクリエイターの間をつなぐ進行管理でした。同期には多摩美、武蔵美、日芸など、清泉では会ったことがない個性的な人たちばかり。印刷物が作られて行く過程は職人技の世界でもあり、とてもおもしろかった。また「映画や写真展を見るのも仕事、勉強して来なさい」そんな環境でしたので、暗かった大学時代から生き返った気持ちでした。
プレゼンテーションという言葉に触れたのもこの頃。得意先にデザインを提案する際、巨大なプレゼンカンプを肩に掛けて会社を出るときのドキドキ感が好きでした。プレゼンコンペも多く、13社コンペに勝ち抜いて仕事を獲得できたこともありました。
仕事は楽しかったのですが、入社して間もないのある日、友人がふと「森さん、英語と音楽が得意なんだからジャズでも歌えば?」と言いました。ジャズボーカルってどんなのだろう?情報誌を調べると「ライブハウス・サテンドール」の店名に吸い寄せられました。
そして、会社帰りに一人で夜の銀座へ。そこで素敵なジャズボーカリスト、金子晴美さんが歌っていました。曲はなんとなく知っているものばかり。ジャズのスタンダードナンバーは多くが往年の映画から産まれたものだからです。中学時代の記憶が蘇りました。そして私は「これは簡単そう。私にも歌える」と思ってしまいました。本当に安直です。プロだから簡単そうに歌って見えただけなのに・・・。以来、ジャズライブハウスに入り浸りました。
その年末、会社の大忘年会がありました。時代はバブル後期、ホールを貸切る一大イベントです。目玉は「部門対抗かくし芸大会」。仕事仲間であるスタイリストやメイクさんなども参加する大掛かりな会です。すると上司から「森さん、かくし芸で何かやるように」と指名されました。仕方なく、ド派手なドレスにバリバリのメイクアップをして、越路吹雪(往年の大歌手)の「愛の讃歌」を歌いました。正直、本当に適当にやったのですが、なぜか経営層のお歴々に大ウケし、ダントツの一等賞に選ばれました。
「こんなことで人は喜ぶのか・・・」賞金でいただいた3万円を部屋に飾り、やっぱりジャズ歌手になろう、と決めました。
20代前半、普通なら恋愛したり合コンで遊んだりするのでしょうが、私はジャズまっしぐら。昼は会社、夜はジャズです。音大生が入居するアパートに引越し、毎日トレーニングをしました。新宿ワシントン靴店(現・バーニーズニューヨークあたり)の前で、ミュージシャン仲間とストリートで歌ったりもしました。ですが、声楽の歌い方とジャズは発声の仕方が違うため、なかなか思ったように声が出ず、色々な先生に付いて学びました。やがて、少しづつライブハウスで歌うようになりました。
ステージで歌い始めると声は飛躍的に成長しました。ただ練習をしているだけでも成長しないし、かと言って闇雲にステージに出るだけでもダメなのです。基本トレーニング→本番に出て学びを実践→振り返って次に活かす、歌でも仕事でも同じでした。
そして一度きりの本番で決めるには、事前準備と緊張感と覚悟が必要だと体感しました。これはスピーチプレゼンでも全く同じことで、今お客様にも繰り返し申し上げているのは、この時の私の実体験から来ています。
歌手としてプロとして大きな影響を受けたのは、ニューヨーク生まれで長く日本で活躍したドーリー・ベーカーさん。松田聖子さんが「スイートメモリー」を歌った時の先生です。イタリア系で、日本人にはちょっと真似できない声をお持ちでした。レッスンで通った先生のマンションは赤坂にありましたが、マンハッタン?のように別世界でした。芸人一家に生まれ、歌い続ける人生から滲むプロ魂。言葉では語りつくせない多くを教えていただきました。
会社とジャズの二足の草鞋が続いて7年程が経ち、厳しいことは承知の上で会社を辞めました。歌だけの人生は素敵で身軽でした。好きなことをする人生を選んだといえばかっこ良いのですが、現実は厳しく、だんだんと生活が苦しくなって行きました。歌うことで幸せな気持ちは薄らいでいき、悩んだ挙句、3年で歌に区切りをつけて社会復帰しようと思いました。
せっかく会社を辞めて飛び出したのに情けないかもしれませんが、自分の強みを活かして一生できる仕事をしたかったのです。残念ながら歌はそれではなかったのです。
英会話学校でとりあえずの職を見つけました。割と自由なところで「Yukikoも何か教えたら?」と言われました。軽い気持ちで、ジャズで英語を学ぶボーカルクラスはどうかと提案したところ採用され、やり始めました。すると、意外な発見がありました。
私は自分が歌うより、誰かの魅力を引き出して歌えるようになってもらうことの方が得意だったのです。ごく自然に一人一人の生徒さんたちに的確なアドバイスができ、みなさん見る見るうちに歌えるようになりました。この頃出会った生徒さんたちは今でもあちこちで活躍していらっしゃいます。ジャズボーカルのインストラクターで学び得たことは、現在のスピーチプレゼントレーナーとしての下地になりました。
このままジャズのインストラクターで独り立ちすることもできたかもしれませんが、一生働くにはもっと確固たる何かが必要な気がしました。職歴を振り返り、自分の強みであり、社会的ニーズがありそうなものは・・・印刷経験と英語だ、と思いました。これで仕事はないだろうか?英語力に特化している人材派遣会社に登録に行きました。
人材派遣会社で面談をすると「印刷と英語ですか。そういった求人はほぼないですね」と言われました。そうなんだ・・・がっかりして帰ってきた翌日、電話がきました。「森さん、ぴったりの求人が出ました!」外資系の製薬会社が英語力と印刷知識がある人材を探していたのです。早速面接に行き、採用されました。派遣社員契約は一年のみでしたが「これでまた生きていける」と思いました。
久しぶりの会社生活。ブースで区切られた静かなオフィスが新鮮でした。印刷に関することを任せてもらっているプロ意識もあり、仕事に力が入りました。私はこんなにも仕事人間だったんだ、と自分でも驚いたのですが、会社でも「森さんは真面目」と思われていたようです。メールのやり取りや電話会議など、仕事の半分以上は英語であることも楽しかったのです。そして、一年の派遣契約後、正社員として改めて採用してもらえました。長いトンネルから抜け出た感じがしました。
社員の仕事は想像以上にハードでした。私の業務に遅れが出ると製造ラインに大きく影響するため、絶対に締め切りは守らなくてはなりません。夜中までよく働き、イギリス、アイルランド、中国などにも頻繁に出張しました。
出張先の欧州で驚いたのは、普通に人とコミュニケーションすることと同様のレベルでスピーチやプレゼンが頻繁に行われていたことでした。当時プレゼンといえば、広告代理店や企画会社など、限られた人たちが実施するものだと思っていましたが、海外ではそうではなかったのです。スライドを使って自社紹介してくれたり、一般社員の集まりなのにきちんとプログラムが用意されていて、冒頭の挨拶、意見を交わし合う場、最後の締めのスピーチなど、人前で想いや考えを伝え合う『仕組み』がありました。
そして、皆、立場に関係なく堂々と話している姿にびっくりしました。日本では本部長などの管理職が会議冒頭や年頭にスピーチをすることがありましたが、ただだらだら話すだけで何も感じたことはありません。それが当たり前と思っていたので、やはり文化が違うのかなあと、漠然と思いました。
社員になって数年後「いまの仕事にプラスして、ブランドマネージメントもやってください」と辞令を受けました。マーケティングはもちろん経験がありませんし、仕事量も増えます。「できません」と言いましたが「やらないなら、もうあなたの居場所はありません」。強みを活かして生きるはずだったのに、またもや試練。外資系の厳しさを思い知りました。
その頃の私と言えば、休みの日には歌舞伎を見たり落語を聞いたり歌ったり。右脳人間なのです。戦略とかリサーチとかデータとか、新しいこと、それも左脳的なことを学んで仕事をするなどというのは絶対無理でした。。でも、逃げることはできない、どうしよう・・・と考えた時、なぜか服装を変えることを思いつきました。それまではわりとカジュアルでしたが、毎日スーツにしました。かなり右脳的な発想ですが、自分なりに鎧を着けてやっていこうという決意の表れでした。
そして、マーケティング業務に取り組み始めました。マーケティングの学校へも通い、日々の業務に取り組みました。まるで目隠しをして全速力で走る馬のようでした。どこをどう走っているのかもわからないし、どこへ着くのかもわからない。ただただ前へ進むのみ。出口の無い長いトンネルの始まりでした。
ある時、アメリカから新たな上司が赴任しました。ポロシャツを着て、ニコニコしながらフロアに姿を現わしました。気楽でいいわね・・・そう言いたくなる雰囲気でした。就任イベントのプレゼンテーションでは、中学英語でわかりやすく話してくれました。“This is my management style…”などと話しています。難しいことは一切抜きで、聞いていて楽しい感じすらありました。すっかりこちらの心が緩んだ瞬間、上司は大きな声で放ちました。“ Look ahead! ” 目を覚ませ!
私の中で「バン!」と音がしました。人生で初めて、上司の言葉でやる気が出た感じがしました。同時に、なぜ日本人上司は今までこういう話をしてくれなかったのか。疑問が湧きました。今思えば、この瞬間がいまの仕事につながる入り口です。ですが当時の私はもちろん何も気づいていません。真っ暗なトンネルに一瞬何かが光った、そんな感じでした。
この頃、自分がプレゼンを行う機会もしばしばありました。とはいっても、今思えば、単に資料の説明です。また、ゾッとしますが、ぶっつけ本番で英語プレゼンもやりました。それでも他部署の上長から「森さんみたいにプレゼンできたら良いわね」と言われました。多分ただ声がよく出ていただけだったと思いますが、「そうですか」と気のない返事をしましたが、長くて暗いトンネルをひたすら走る日は続きました。
ある朝、会社に到着すると一通の英語メールが入っていました。誰だろう?短い文面でした。「Moriさん、さっき電話したけど、あなた、いなかったみたいですね。Yellow Brick Award おめでとう!」メール署名欄に、本国の社長のファーストネームがありました。 今期の最優秀社員に私が選ばれ、社長自ら電話で知らせようとしてくれていたメールでした。驚いたのと嬉しいのとが混じって、パソコンの前で泣いてしまいました。
Yellow Brickとは、黄色いレンガのこと、大好きなJudy Garlandが主演した映画「オズの魔法遣い」に出てくる、夢を叶えるための道が黄色いレンガで出来ている、その名前がついた賞。なおさら嬉しかった。そして、社長自ら連絡してくるアメリカ人のコミュニケーション力が、強く心に沁みました。
会社で働きながらも、ジャズを教えることは趣味で続けていました。ある日、新しく加わった生徒さんにどんなお仕事をされているんですか?と尋ねると「コーチングです」とのこと。どこかで聞いたことがある言葉で興味を引かれました。「それ、どんなものですか」と尋ねると、ちょうど体験的なイベントがあることを教えてくれました。
イベント会場には人が沢山いて、ちょっと苦手な雰囲気でもありました。プログラムが始まり「どなたか、デモンストレーションでコーチングセッションを受けてみませんか」との投げかけがあり、少し批判的な気持ちがあったことは否めませんが、ぜひやりたい!と思って手を挙げました。
実は、この時の状況を私自身はあまりよく覚えていないのですが、私の様子をご覧になった方がいて、後からその時のことを聞きました。それによると、私はデモセッションの前には「人生は仕事さえあればいい」とキッパリ言い切っていたらしいのです。ところが、コーチとのやりとりをしていく中で、急に私が歌い出したんだそうです。仕事一本槍で閉じていた長いトンネルの中で仕事のことしか考えていない状態だったのですが、コーチとのセッションによって自分自身の本当の想いに気がつき、心がパッカーンと開いて歌い出したのかなあ、と思います。
人には色々な生き方があると思いますが、私は、仕事の中に自分本来の生き方を見つけたかったのです。それには、直感的にコーチングが良さそうだと思い、コーチングの勉強を始めました。目から鱗、心から何かが剥がれるような気持ちがしました。仕事もポジションも経歴も関係なしに腹を割って話せる仲間たちがいて、新しい人生の旅に出たような感じでした。コーチングを学び続けて、コーチの資格までも取得しました。
また、長期合宿型のリーダーシップ研修にも参加しました。そこで「人生をもう一度見直そう」と思いました。かなり会社を休むことになるので言いづらかったのですが、部長は受け入れてくれました。ありがたかったです。合宿参加するにあたり、英語のニックネームが必要になったので、「Judy」。大好きな憧れのスター、Judy Garlandからいただきました。
合宿で出会った仲間たちは、会社では出会わないような、音楽仲間にも居ないような人たちでした。ある日、仲間の一人がふと、こんなことを言いました。「Judy、マーケティングの仕事もいいけど、自分の強みをもっと発揮したらいいんじゃない?」自分の強み、ずっと探していたものです。
仲間と会話をするうちに「イメージコンサルタント」という仕事を知りました。服装をコーディネートする仕事らしい、本来右脳の私には向いてるかな?興味がわいたらすぐ見てみたくなる癖が出て、軽い気持ちでイメージコンサルタントを養成する会社に行き、話を聞きました。
学んで資格を取ったからといってすぐ仕事になるわけではない、自分で仕事を立ち上げない限り、職業にはならないとのこと。それでは困ります。「少し考えます」と帰ろうとした時、先方担当者が何気なく仰いました。「森さん、声のことをずっとやっていらっしゃいますよね。だったら、声のイメージコンサルタント、やったらいいんじゃないですか」「・・・そんなのあるんですか?」「無いですね。森さんご自身で作ったらいいんですよ」と言われました。
イメージコンサルティングは、服装だけでなく、ポートレート、メガネ、着物、など、細分化したそれぞれの領域で、人の印象アップをお手伝いすることができる仕事だったのです。「声からイメージアップする」なるほど。それはなんだか面白そう。声のことは12才からずっとやってるし・・・頭の中でぱたぱたぱたっと閃きました。
ビジネスの世界で「声」といえば、スピーチやプレゼンテーション。・・・であれば、話すことが重要なトップリーダーやエグゼクティブに、スピーチやプレゼンテーションのトレーニングをする・・・それならいっぱい経験して来た!やってみよう!
声のイメージ。ボイスイメージ。
だから、Voice Image Consulting = VIC
こうして「ボイスイメージ」Voice Image Consulting(VIC)がうまれました。
商品が売れる仕組みにはマーケティング戦略があるように、スピーチやプレゼンテーションにも戦略がある。最初に取り掛かったのは市場調査。世の中にどんな「話し方」の勉強があるのか、実際に参加して学んでみました。すると、見つかったのは「緊張しないで上手に話しましょう」「気持ちよく声が出るボイトレをしましょう」「プロのアナウンサーが教えます」「立ち居振る舞いでイメージアップ」などで、メソッドとして、話すことを理論的に学習ステップで学べるものは見当たりませんでした。
なんとなくの方法論では、ロジカルなビジネスマンには学んでもらえない。そこで、誰でも学べて現実で実践できる「理論」があるメソッドを作ろう、その人にしかない魅力を引き出して自分らしく話せて一生使える方法論に裏付けられたサービスを作ろう、と思いました。
まず、セミナーを開きました。7名のご参加をいただき、そこから、ありがたいことに、研修会社社長の長期トレーニング、そして、大きな組織の「プレゼン研修」のご依頼をいただきました。
「プレゼン研修」を提案するにあたり、組織のビジョンやミッションをお聞きしました。次に、自ら競合調査を行い、現状課題分析、戦略立案。アクションプランとして、オリジナルメソッドを含めた研修プログラムを作成しました。
メソッドは、これまでの私自身の人生における学びや経験をもとに、マーケティングで取り組んできたことを掛け合わせたのです。誰にでも実施でき、商品としての価値あるものになるようにまとめました。その分厚い企画書を持って行くと、「えっ!、Judyさん、ボイトレなのにこんなことできるんですか?」と先方の方がおっしゃいました。
「私のサービスは、ボイトレではないんです。ボイストレーニングはサービスの一部で、声からイメージアップして「話すこと」全体を高めるサービスなんです。理論と実践で、スピーチプレゼンを伝わるようにする戦略です!だから誰でもやればできるんです!」思わず説明する言葉に熱が入ります。
「じゃ、いつからできます?」
こうして、ボイスイメージの仕事が、始まりました。
ミュージカルスターを夢見て、ジャズボーカルに挫折し、「英語と印刷」の強みで復活した社会生活。そして長いトンネルのようだったマーケティング業務を経て10年後、再び「声」の強みが復活し、スピーチプレゼン戦略VICが誕生しました。
そして、私の経験だけでは、商品化はできませんでした。会社での経験があったからこそ、メソッドも提案もすることができたのです。会社にいる頃は、この苦しみが何になるのか、まったく分からずにやっていました。
でも、会社を辞めて初めて、全てが自分の武器になっていることに気がつきました。自分でも驚きましたが、会社と上司に改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。会社は、お給料を払ってくれる上に、いろいろなことを学ばせてもらえるありがたい場所でした。
スティーブ・ジョブズがConnecting dotsと言っている、まさにその通りです。その時やっていることがこの先どんな意味を持つのか?その時にはわからない、振り返ってみて、繋がって何かが生まれていたことに気づく。今のことは、あとになってみないとわからない。それでも今、ひたすらに点を撃ち続けるのだ。そしてある時、それら無数の「点」は大きな一枚の絵で、立ち上がってくる。
私の場合は、その一枚の絵がこの仕事、スピーチプレゼン戦略VICです。長い道のりでしたが、小さな絵ができました。自分の強みが仕事に活かされ、どなたかのお役に立てている。とてもありがたいことだと感じています。